こころ遊多加な介護へ

暮らしといのち

【作品】よりどころ

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 「よりどころ」        豊田久乃          

 

 病院とはその忙しさゆえ個別対応はありえないと思っていたが、なにしろ私には余裕がなかった。急がなければ警察のお世話になってしまうかもしれない。暴れる母か、おさえる父か、割って入る私か。誰が加害者あるいは被害者になってもおかしくない現実をなんとかしなければならなかった。

 

 認知症初期とそっくりな母の症状は日ごとに激しくなっていった。風呂に入らず部屋はゴミだらけ、片付けようとすると大声を出して暴れ始める。家中のガラスは割れ、ドアは外れ、父はいつもどこか怪我をしていた。妄想はエスカレートし暴言は家族のみならず近隣との折り合いも悪くしていった。いったい何をどうすればいいのかさえ私には分からなくなっていた。

 

 とにかく認知症であるかどうかをはっきりさせなくてはならない。だが今の母を精神科に連れて行くことは途方もなく難しいことに思えた。唯一の希望は数年前から糖尿病の治療で月に一度通っている内科医。家族の言うことなど聞かず誰を見ても悪態をつく母だが、ハキハキと大きな声でにこやかに話すこの若い先生をとても信頼しており、一度も病院通いを休まなかった。

 

 しかし認知症の診断に結び付けるにはこのままでは無理がある。今の病院には精神科や脳神経外科がない。そこで私は思い切ってお願いしてみることにした。

 

 本来なら多忙を極める医師や病院の職員方に個人的なことを頼めるはずがない。だが選択肢が他になかった私は切羽詰まって一枚のメモを作った。母の症状を細かく箇条書きにし、隣町の病院でMRIを撮りたいことと精神科への紹介状を書いてほしい旨をパソコンでまとめプリントした。診察日に母を待合に座らせた後、受付の方にその紙を渡して説明し、本人が拒否しないように担当医から伝えていただけないだろうかと懇願した。受付の方は「先生に渡しておきます」と言った。

 

 母の名前が呼ばれ診察室へ入る。母は医師の前にニコニコと座る。私は少し後ろの丸椅子で腰を浮かせている。普段通りの糖尿病の問診後、先生は母の顔を見てこう言った。

 

「以前おなかのCTはこちらで撮りましたから、
 念のためMRIを受けてみましょうか」 

 

 母の返事を聞く前に私の方を向いて「ご家族の方、どうですか?」と声をかけてくださった。

 

「ぜひお願いします」間髪入れずに答えた私は、心の中で飛び上ってガッツポーズをした。その医師は母の前で看護師に指示、すぐに電話で隣町のMRIがある病院を予約。

 

「日にちが決まりました。次回こちらに来るときはMRI画像を持ってきてくださいね」

と母の目を見ながら念を押した。

 

 母は先生の指示なので別人のように素直で従順になっている。初めて行く隣町の病院にもいそいそと出かける。だが一方でその間にも家の中での症状は悪化を続けていた。

 

 私は祈る思いで待ち続けた。ようやく出来上がったフィルムを抱えて次の糖尿病の診察日。担当医は脳内スキャン画像をチラッと眺めただけですぐ母に言った。

 

「一応、専門の先生にも診てもらいましょうか。今、紹介状書きますね」

 

 ああやっとつながった。これで精神科にかかることができる。長かった暗闇からパッと明るく開けた道に連れて来られたような気がした。母と診察室を出るとき私は、地に足がつかないような心持ちで「ありがとうございました」をくり返し、何度も頭を下げた。

 

 紹介状を握りしめて再び隣町の病院の精神科へ。専門医による問診や長谷川式スケール等のテストを受け、私が事前にまとめた症状のメモも見ていただき、MRIの画像診断も含め、ここで初めて「アルツハイマー認知症」と診断された。

 

 その後も症状は安定せず病院や施設を転々とし続けた。それぞれに忘れられないエピソードもあるが、すべては大前提となる「認知症」の診断があってこそ。

 

 長い間私たちは、現実がなぜこんな惨状なのか分からないまま疲弊していた。そんな我々の人生に突破口を開けていただいた、あの日の病院の柔軟な対応と内科医の機転。どれだけ言葉を並べても感謝を重ねても届かない。もしこのことがなかったら母は適切な治療には決してたどり着かなかった。それどころか今ここに家族全員がそろっていなかった可能性が高いのだ。

 

 七年が過ぎた今も、この医師は同じ病院の内科医の欄にお名前がある。いつか自分が受診する際には、あの日の感謝をきちんと伝えようと想い続けている。 

                         了

 

 

2016年読売新聞社「心に残る医療」宛応募作品を再編。

「随筆集あかるいみらい‐そのよん」掲載作品

※画像の中に記載されておりますURLとメールアドレスは現在変更になっております。

 

 

 

 

 

遊多加企画 豊田久乃 

yutakanet365【@】gmail.com

 

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