こころ遊多加な介護へ

暮らしといのち

【作品】「最後の夜」

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「最後の夜」        豊田久乃

 

 年老いた父が、まるで小学生みたいな顔をしてスズメを見せにきた。父の手のひらにいたのは瀕死のヒナで、もはや長くはなかろうと思えた。それでも温かい寝床を用意し、砂糖を混ぜた水をたらすと黄色いくちばしをムニムニと動かして飲み始める。数時間もすると鳴き声を上げてピョンピョン歩きまわるほどに元気を取り戻した。窓際にヒナを置くと親鳥らしいスズメが数羽やってきてはガラスの向こうでグルグルと唸っている。ヒナも外を向いて鳴き続ける。このまま元気に育つなら、羽が生えそろい飛び立てるまで面倒を見ようかという気になった。

 

 だがその日は猛暑の合間の震えるほど寒い夜で、いつもは蹴飛ばすタオルケットだけでは足りず、少し厚手の布団をひっぱり出したほどだった。ヒナがこの寒い夜を、親鳥なしで生き抜けるなどと、私は思っていなかった。朝になり冷たくなったヒナを見つける父に、私は何と言えばいいだろうかと目が覚めるたびに言葉を探していた。

 

 ところが、いつもより少し早く起きた父が、鳥かごに向かって「元気かー」と大声を上げている。まさかと思ったがヒナはもぞもぞと動いている。なんとこの寒さを一晩生き抜いたのだ。だが衰弱はひどく、保護したときよりも弱々しくなっていた。父は自分の食事もそこそこに、命のともしびを手の中で温め始めていた。ときおり聞こえる鳴き声に、私も「もしかしたら」とささやかな希望を持ったが、一時間ほどすると昨日のように父はやって来て、鼻をすすりながら小さな命が消えたことを告げた。

 

 見つけなければそのままひからびてしまったかもしれない命が、わずかに寿命を延ばし、あたたかい手の中で目を閉じた。それはまるで病院で最期を迎える人の姿のように思えた。

 

 病院で死ぬことができるのは、ある意味ではとても幸せなことだと思う。身体の機能を落とし異変を抱え、老いとともに病院のベッドで迎える終焉は、当たり前のようでいて稀有なことかもしれない。

  

 私はかつて、ある日突然病院以外で死を迎えた人の悲しい姿を覚えている。だからこそ穏やかにゆるやかに老いや病を重ねながら死に向かっていくという在り方に、ただ憧れているのかもしれない。寒い夜ひっそりと孤独に命を閉じる選択をすることは、まわりの人を無視して置き去りにしていく。突然断ち切られる関係性と貴重な命。納得できない現実と見えない背景。あまりにも一方的で、あらゆる準備は間に合わない。

 

 一つの命が終わるということは、思っているよりずっと大きなできごとだろうと思う。大きな水風船が自分の頭の上で巨大化し、それがある日ワッと割れてしまうような、分かっていても、覚悟をしていてもなおやってくるものすごい衝撃。連綿と続いてきた個人の歴史がぷつりと途切れ、二度とつながることのない断絶。残された生き様や想いが、どこにも保存されずにさらさらとこぼれ落ち忘れ去られていく無常。その人が生き抜いた何十年という証がどこにも残っていない無念。

 

 死とは本人だけの問題ではない。だからこそ家族や所属する組織、自分の過去や維持してきた関係性に、きちんとピリオドを打つための社会的なプロセスが必要なのだ。病院とは病から回復する場所であると同時に、死亡診断書を書いてもらう場所でもある。適切な医療も看護も場合によっては介護さえも受けながら、ゆっくりと最後に向かうことで、本人のみならずまわりも日に日に覚悟を決め、心の準備をする時間を得られる。この先ぽっかりと空いてしまう存在の欠落を、別のかたちで社会の中に残す手段を探すこともできる。忙しくその方法を探したり手続きをする中で「人は生まれた瞬間から死に向かって生きる」というパラドクスから、少しだけ解放されるような気がする。

 

 スズメが命を長らえたのは、誰かの優しさの中で最期を迎えるためだったかもしれない。寒い夜を耐えきれずひっそり冷たくなるよりも、父の手の中で最後の一時間を過ごしたことこそが、スズメにとっても、父にとっても意味のあることだったのだ。スズメはそのために一晩がんばって生き抜いた。親鳥からも人の手からも離れて寒い夜の孤独を耐え抜いた。とてつもなく長い「最後の夜」だっただろう。

                           了

   

※この作品は2013年販売済の「随筆集あかるいみらい‐その壱」に納められています。転載はご遠慮下さいませ。印刷用PDFがありますのでご希望の方はご連絡ください。

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遊多加企画 豊田久乃 

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