こころ遊多加な介護へ

暮らしといのち

【作品】「街の記憶」

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※この作品は本名にて一般配布しています。

 

 

「街の記憶」         豊田恵子

 

 見ず知らずの方とつながりができた私は、初めて家を訪れた。長年一人暮らしを続ける八〇歳の彼女は私を見てもよそよそしく知らんぷり。

 

 それまで私は、寝たきりの父を抱えながら恩返しする方法を模索していた。認知症だった母の介護認定から入院、看取りまでの八年、地域の専門家に解決策を導いていただいた。その感謝を伝える方法はないものかと探し当てたのが市民後見人。不思議なことに研修の講師は母の介護でお世話になった方。まるで運命のように私は直接お礼を述べて歩くことになる。どうにかこうにか講義をクリアし、かろうじて試験にも残り、市民後見人としての活動が始まって最初に出会ったのが彼女だった。

 

 彼女の家にはケアマネージャーをはじめヘルパーやデイサービスの職員、訪問診療の医師や看護師、薬剤師や弁当配達の業者など、関係者がひっきりなしに出入りしていた。彼女は人がいても気にならないのか、誰とも口をきかずただ静かにテレビの方を向いていた。

 

 生活のリズムが把握できた頃から、私は誰も来ない時間を見つけて彼女を訪問することにした。聞こえが弱いと伺ったので小さなホワイトボードを使い筆談を試みる。一言書いては彼女に渡し、じっくり読んでもらって反応を待つ。書いてある言葉が理解できてからその返事を話し出すとき、彼女の顔はパッと輝き満面の笑みであふれた。体調はどう? 好きな食べ物は? ささやかな日々の暮らしのことから、この街に来た経緯や故郷の風景、子どもの頃の思い出など、時間をかけて対話を続けた。認知症とは思えないほど返ってくる言葉は的確で記憶は鮮明。身振り手振りとゆたかな表情で想いを表現する。さらに気分が高揚すると大きな声で童謡や演歌を朗々と歌いあげた。

 

 そうなるとこちらの気持ちにも張りが出る。向かう道すがら「今日はこんなことを聞いてみようか」「この間の話の続きをしようか」とあれこれ考えながら街を歩く。

 

 ところが彼女は突如体調を崩し入院。持病も重なりそのまま半年を待たずに逝去された。私の任務はプツリと終わってしまった。市民後見人として最後の報告書を作りながら自分の中では静かに憤りが芽生えていた。赤の他人とはいえ一人の人生の終焉を見届けたというのに、心が動かない自分自身に対して強い不信感を覚えていたのだ。

 

 あらゆる手続が終わり後見人という立場が完全に消失したある日のこと。空の巣症候群のような手持ち無沙汰を後ろめたく思いつつ、ぼんやりと時間を過ごしていた私は、前触れもなくせきを切ったように号泣した。自分でもわけが分からないまま、こみ上げる感情を抑えるすべもなく慟哭した。役割が抑え込んでいた「私」の想いの数々がいっせいに湧き上がってくる。二度と会えないさみしさ。ちゃんと送ることができた安堵。まだまだ話がしたかった無念。せっかくこれからというところだったのに。もっとできることがあったのに。もうちょっと時間があってもよかったんじゃないかと誰かに文句を言いたくなる悔しさ。

 

 同時によみがえる鮮やかな風景の数々。いつもの時間に来るバス。坂の上から眺める富士山。公園のベンチでは白髪の紳士が本を読んでいる。桜並木にたたずむ高齢男性は、通るたびにニコニコとあいさつをしてくれる。色とりどりの植木鉢の花に水をやるご近所さん。あちこちから聞こえる布団をたたく音。リハビリで往復しているのは町内の方。ベビーカーに愛犬を乗せて散歩する高齢女性。近隣の方々と重ねる地域猫のうわさ話。ワゴン車でやってくるスーパーの出張販売。顔なじみになったコンビニの店員さん。最寄り駅と時刻表。目に映るすべてが彼女とセットになっていて、彼女のいないこれからの毎日はその街の景色に彼女を想うことになる。

 

「ああこれでやっと、彼女と私はつながったんだな」

 

 もともと縁もゆかりもない、街中ですれ違うことさえなかった人。でも一年をともに過ごし言葉を重ねたことで、私の暮らしの中に生涯消えることのない記憶が刻み込まれた。社会的には私との関係性も消え、彼女の存在さえなくなってしまったけれど、立場の消失と入れ替わるように私の中で思い出は大きくなっていく。

 

 つながりとは必ずしも、長い歴史や目に見えるかたちの上にだけ成り立つわけではない。彼女は私のことを覚えていないだろうけれど、私は今日も街のそこここに彼女を見つけている。

 

     了

  

※この作品は本名にて一般配布しました。

「随筆集あかるいみらい‐そのよん」収録予定。転載はご遠慮下さい。リンクは歓迎します。ご一報ください。

 

遊多加企画 豊田久乃 

yutakanet365【@】gmail.com

 

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