こころ遊多加な介護へ

暮らしといのち

【作品】「目覚めの朝」

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「目覚めの朝」         豊田久乃

 

 得体のしれない不安がじわじわと広がったのは二月に入ってからだった。テレビの向こうの遠い出来事だったニュースが、自分の身に降りかかる恐れのある至近距離まできた現実に加え、専門家でさえ正解を持たない新たな難題であることに震撼する。ここ横浜から広まったこともあり田舎の年寄りは電話で話すときでさえのけぞらんばかりに距離をとる。こんな状況の中で果たして自分は何をどうすればいいのだろうかと、ただ漫然とした落ち着かない心持だけが闇を深めていった。

 

 一番の恐怖は「自覚症状がないまま自分が突然いのちを落とすかもしれない」という事実を突き付けられていること。これまでも不調を感じるたびに考えたことだが、今回は強いリアリティで迫っている。もう目をそむけることなくこの先の未来に準備しておかなくてはならない。

 

 明日の朝もし私が目を覚まさなかったら父はどうなるだろうか。救急車を呼べるだろうか。近所の連絡先は常々伝えてあるが分かるだろうか。食事はどうするだろう。お金の場所は見つけられるだろうか。やっぱり後見と介護は第三者を入れておくべきだったか。以前の引越の際は父の一挙手一投足をそれぞれメモに書いて説明して指示した。まるで子供時分に遊んだ宝探しのようにまずこれをやって次はこれを、と具体的にやることを伝えてようやっとなんとかなった。そろそろこの先のことも細かく書いたメモをあちこちに貼り付けておかなければならないだろうか。

 

 一方で「今、自身のいのちが尽きて悔いはないだろうか」とくり返し考えた。普段ならこんな学生じみた青臭いテーマが奥底から湧き上がってもあえて見ないようにするところだが、本当に明日自分が死ぬかもしれないという現実を前に照れている時間はない。

 

 ここで終わって悔いはないのか?親への恩返しはこれですべてか?他人様にできることはやり切ったのか?まだ叶えていない約束はなかったか?もう一度会っておきたい人には会えたのか?

 

 毎日毎日「これで十分か?」と自分の内側に問い続ける。

 

 四月も終わりになるとようやく専門家の情報も安定してきて、我々市井の人間は日常で何にどう心を配ればよいのかが見えてきた。ああそれなら大丈夫、なんとかなる。対応が分かり準備もできればふと気が抜けて、ある日今までの不安を帳消しにするくらいに猛烈な生きるエネルギーが湧いてきた。エンドルフィンが出たのだろう。本能は死を避ける方向へ働くようになっている。

 

 いつか自分が老いさらばえたとき、その頃には整っているであろう制度を利用して自らが決断することでピリオドを打ちたいと常々望んでいるくらいだが、この数カ月に限って私は死ぬことを猛烈に恐れていた。何もできない父を一人残して今ここで先に逝くことはできない。それは残された父が不憫だからという理由よりも、介護者としての保護責任の放棄であり世間様に多大なご迷惑をかけることになるのが心苦しいためだ。介護放棄が当たり前のように報道される時代でも、自分自身の生き方在り方の選択において私はせめて実子としての責任だけはなんとしても全うしたい。

 

 そうは言ってもいつか目覚めない朝は来るだろう。事故かもしれないし病や想定外の突発的な何かによるものかもしれない。「これで終わっていいのか?」という問いかけを重ねた日々は、今この瞬間とこの先の未来への姿勢に変化を及ぼした。まるで懐に隠し持つ護り刀のようにいのちと引き換えに次の手を強いる。この先の未来にやり残すことのないように、振り返ってわが身を恥じることのないように。今この瞬間にもっとできることを見つけるために。より誰かの幸せのために自分が在り続けるために。

 

 なぜなら私は今日も目覚めの朝を迎えることができたからだ。

 

     了

  

 

 

 

※この作品は「随筆集あかるいみらい‐そのよん」掲載予定。転載はご遠慮下さい。リンクは歓迎します。

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遊多加企画 豊田久乃 

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